概要欄のメモがあまりにも面白かったので、転載させてください。

 たまたま見かけたのですが、本編より概要欄が面白いので消されてしまう前にメモりました。僕が書いた文章ではありません。こういう文章を書ける人は、どういう脳みそをしてるのか気になります。

 その何の変哲もないダイナーが謀略の渦のど真ん中に据えられることになるとは、無口なマスターや舌のイカれた客たちには知る由もなかった。
 ダイナーの入口には、やかましいドアベルがぶら下がっている。今、そのベルを惜しげもなく揺らしたスリーピースのスーツに身を包んだ男──クラウスは、剃刀の刃のように鋭い視線でボックス席とカウンターの客を薙いだ。彼は窓際のボックス席に赤い革のブリーフケースを認めると、真っ直ぐにそちらへ向かった。目当ての席には、当然のことだが、先客が居座っていた。
 神経質そうにゆで卵の殻を剥がし取って真っ白なプレートの上に並べている。その乾いた瞳が上目遣いにクラウスを捉える。足元の赤い革のブリーフケースの取っ手に手をかけた男は、警戒したようにしわがれた声を絞り出す。 「カサブランカに鷹は舞い踊る」
 その意味深な詩句にクラウスはすかさず声を潜める。 「その羽ばたきがマラッカの路地裏に血を流すとも知らずに」
 それが合言葉だった。二人は無感情にお互いを眺めて、やがてクラウスは相手の向かい側に腰を下ろした。 「42秒遅れたぞ」
 男が恨めしそうにカウンターの向こう、雑音だらけのラジオに埋め込まれた時計に目をやった。 「直前になって場所を変えられたのでは仕方のないことだ、”銀鴉”」
 そこに怒りはない。クラウスには何としても成し遂げなければならぬことがあった。 「Nが”6号”についての餌をカササギにやったというのは本当のことなのか?」
 それが蒸気連盟国側に計り知れぬほどの損害を与えるだろうことは周知の事実であった。不愛想な給仕係が白いマグカップとポットを手にやって来て、薄いコーヒーをなみなみと注いでいく。雑巾でも放り投げるようにメニューを放って下がっていった。銀鴉は、給仕係の贅肉たっぷりの背中を見送ると、ゆで卵をひとかじりする。 「その証がここにある」頭を微かに振って、足元のブリーフケースを示す。「だが、君がこれを抱えて再びベルを鳴らすことができるかどうかは、君次第だ」 「見返りは?」
 ずっと尋ねたかったことだった。クラウスは空の弾倉を突っ込んだ拳銃を持たされて戦場に投じられるような心持ちで、ここまでやって来たのだ。銀鴉はクラウスに向けてフォークを振るった。 「その頭の中に用がある。枢機卿はダマスカスの蒸し焼きを望んでる」 「馬鹿な。味方を売るような真似はしない」
 不和を投げ込めば、国の中枢機能など内部から壊されてしまう。それでは”6号”を潰す意味などなくなってしまうだろう。 「君のために生涯安泰なポストは用意されている」
 悪魔のような囁き。しかし、クラウスの意志は固い。ガラテア教国同盟は祖国を飲み込もうとしている。そこには、彼の全てがあるのだ。クラウスは肘を突いて静かに顔を突き出した。 「お前に忠告をしておこう。お前がそのブリーフケースを持ってこの店から一歩でも外に出た瞬間、君の人生はそこで一巻の終わりとなる」
 銀鴉は大きな窓から通りを見渡した。通りの向こう、石造りの建物の屋上にチラチラと影がある。 「それで42秒を要したわけか……」 「もちろん、俺が合図を送れば、今すぐに君のこめかみに風穴を開けることも、彼らに休息を与えることもできる」
 銀鴉はじっとクラウスの青い瞳を見つめた。そして、どこからともなく一通の封筒をテーブルの上に滑らせる。眉をひそめてクラウスがその中に目をやると、西方検問所の通行証と新しい身分証が入っていた。 「君が望むなら、こちら側で別の人生を始めることができる」
 クラウスはそっと封筒を押し戻した。その決然とした所作に銀鴉は笑みをこぼした。 「合格だよ」 「なんだって?」
 銀鴉はシャツの首元をチラリと裏返した。そこに車輪と歯車のマークが刺繍されている。蒸気連盟国のシンボルマークだ。 「どういうことだ?」
 銀鴉は勿体ぶるように、残りのゆで卵を口に放り込んでゆっくりと咀嚼する。 「君を試させてもらったのさ」銀鴉は手元の封筒をくしゃくしゃに握り潰した。「これで裏切るような人間は我々には必要がない。君は忠誠を示したというわけだ」
 クラウスはフッと笑いを漏らして、小さく拍手した。 「見事だ。君は試験をパスした」
 今度は銀鴉が首を捻る番だ。 「なんだと?」 「その通行証と身分証は、その気になれば君自身の物に作り替えることもできた。しかし、君はそれを誘惑とも思わずに、現れた人間をテストする役目を全うしてみせたのだ」
 讃えるような、そして、労うようなクラウスの目が優しく細められた。銀鴉は唖然とした表情で彼を見つめ返すことしかできなかった。
 モニターに釘付けになっていた監督が声を上げる。 「OK!」
 演出家、撮影監督、音響監督、照明技師が集まる。 「雰囲気これでいけそうですかね?」 「まあ、後は本人が気概を見せてくれるかどうかってところだね」
 テスト俳優の二人が頭を下げて捌けていく。メインの役者たちは少し遅れているらしい。彼らを待つ間に、画作りのブラッシュアップをしておこうと急遽テストが組まれたのだ。
 ダイナーの窓の向こう、大きな目が覗き込んでいる。大きな腕が伸びてきて、ダイナーの屋根を取り外していく。もう一方の腕が、撮影クルーたちをひと掴みにして連れ去ってしまう。
 冴えない男がフィギュアを手に難しい顔をしている。部屋の入口に妻の顔が覗く。 「またお人形遊びしてるの?」 「お人形じゃなくてフィギュアね」
 妻は呆れた顔で近づいてくる。ダイナーの中のフィギュアたちを見つめる。そして、腕時計に人差し指を向ける。 「もうそろそろ出るんだから、片づけてよね」 「あれ?」男は素っ頓狂な声を上げる。「今日だったっけ?」
 妻が眉を吊り上げる。 「そうだよ! ずっと言ってたじゃん! お母さん楽しみにしてたんだから!」
 男は慌ててテーブルの上を片付けだした。急いでケースにフィギュアたちを並べ、ダイナーのジオラマを棚の一番上にそっと置いた。身だしなみを整えるために部屋を飛び出して行く。
 語り手である私は、この場に残された。語るべき物語から舞台も人々も消えてしまった。
 語るべきものも、語るべきことも、ここには何もない。
 語り手は、それだけでは存在できない。舞台と人と出来事がなければ、存在意義などないのだ。私の手元からは砂のように、それらのものが滑り落ちてしまった。
 何を語るのか?
 何をも語らぬ語り手に意味などあるのだろうか?
 しかし、気づくのである。
 すでに私は私を語る語り手となっていることに……。そして、語ることに喜びを感じている自分自身に。
 私は語りたいのだ。語るものがなかろうと。いや、語るものがないということはあり得ない。主観を有する私という存在が、語るべきものそれ自体を内包しているのだ。
 つまり、語り手がここに存在するのならば、語られるものは必然的にそこにある。そして、私はあるがままにそれを語るだけなのだ。 「合格です」
 どこからか声がする。 「あなたは語り手としての試験をパスしたんです」
 産道の先に光が見える。
 苦痛に満ちた有時間の海の波打つ音が聞こえてくる。
 そして、私は大きく息を吸ったのだ。
 喉の奥、唾液と羊水の混じった気泡が弾けて、宇宙がひとつ、終焉を迎えたようだった。

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